教員が従事する業務のほとんどは労働ではない!?埼玉県の小学校教諭が起こした裁判を解説

結論

さいたま地裁での判決は原告側の敗訴。課題は給特法の曖昧さにあり、その曖昧さから解釈を幅広くできるため、残業代の支払いは棄却された。なお、原告は控訴する意思がある。本記事は以下の疑問を解消します。

  • 裁判の概要を知りたい
  • なぜ、多くの業務が労働として認められないのか知りたい

概要

埼玉県の公立小学校の教師が残業代が支払われていないとして約242万円を県に請求した裁判である。給特法と労基法の違反を指摘した裁判であり、昨今では教員の働き方に関心が高いため注目を集めた。

令和3年10月1日判決言渡

平成30年第33号 未払い賃金請求事件

さいたま地方裁判所第5民事部

給特法について

給特法の正式名称は、「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法」で、教員の職務の特殊性を考えたときに給与と勤務条件について特例を定めた法律です。

教員の職務の特殊性とは、いわゆる多くの業務に明確な終わりがないという点につきます。具体的には、生徒指導や授業準備など教員の裁量で短くも長くもできる職務が多く、明確に時給換算し残業代として支払うことが困難であるという考え方です。

以上の観点から教員は、基本的に残業が出ません。しかし、教職調整額というものがあり、残業代が出ない代わりに、給与の4%上乗せして支払われています。これは、8時間残業した額とほぼ同じであり、給特法が制定された当時の月平均残業時間でした。もちろん、残業をまったくしなかったとしても支払われるので、その点だけを見れば民間よりも優遇しているととらえることができます。

残業代が支払われる場合

残業代が支払われるパターンもあります。超勤4項目というものがあります。超勤4項目とは、以下の通りです。

  1. 生徒の実習に関する業務
  2. 学校行事に関する業務
  3. 職員会議に関する業務
  4. 非常災害等やむをえない場合に必要な業務これらの業務

これらの業務を行う場合のみ残業代が支払われます。

それ以外の業務、例えばテストの採点や成績処理などは、基本的に勤務時間内(すきま時間の活用も含めて)に終わらせることができる範囲であり、勤務時間を超えた業務は全ては教員が自主的に行った業務であるという考え方です。

労働基準法違反を争点として

今回の裁判の争点は、給特法ではなく労働基準法違反に焦点を当てています。

使用者(この場合は校長)は、8時間を超えて労働をさせてはいけない。ことになっています。つまり、校長が職務命令を行うことができるのは勤務時間内のみで、もし、それを超える場合は超勤4項目を行うときだけ残業代が支払われるとしています。しかし、実際は校長が直接的に命令して残業させた事実や証拠がないので、教員が自主的に行ったと判断されてしまったのです。

 

では、職員会議で決定した業務についてはどうか

教育基本法に定められている職員会議については、職員会議の意義と役割を明らかにしているだけで校長の権限を与えたものではないため、職員会議で決定した業務は校長が命令したということにはならないという解釈です。

まとめ

時間外に行われている校長が直接命じて行われた事実はなく、教員自身の判断により自主的に行われていることであるという解釈でした。

つまり、校長は勤務時間外に業務命令をしていないため、本件の請求は棄却されたということです。砕けた言い方をすれば

時間外のすべての業務は、校長は命令していないし、そもそも教員の業務が自己研鑽と校長の命令が曖昧になっているから教職調整額がついているんですよ。あなたたちの時間外業務にはちゃんと、手当がついているのだから問題はありません。

ということになります。

私見ー増え続ける業務と変わらない現場でできることはないのかー

法律の解釈では、教員の業務過多は、教員自身が招いたことだと結論づけられたも同然だ。すべては教職調整額によって支給されている4%のうわのせが元凶だろう。

今回の件でわかったことは、教員が思っていた以上に、自分たちが従事していた仕事は、「自分たちで作り出した仕事」であるというのが法律的解釈であるということだ。この判決には、多くの教員が絶望しただろう。

裁判は、法律に基づいて原告と被告の仲裁を行う。つまり、拡大的に解釈することができる法律が残っている限り、裁判で勝つことは無理なのである。残業代を求める場合、法律を変えるように国会議員に働きかけるしかない。

日本の性格と増える業務の関係

業務が増えていった背景には、日本の心配しすぎな文化も関係あるかもしれない。教育はその成果がすぐにはわからないし、調べることも難しい傾向にある。だから、「実施すれば子どもたちにとって良い経験になりそう」なことは山ほどある。その積み重ねでここまで業務が増えてきた帰来は少なからずある。学校単位で、また教員の裁量で業務をコントロールすることができるのならば、その方向で行動する必要もあるのではないかと考える。

また、よく考えるべきことは発展途上の国の方たちの人間性が先進国よりも劣っているかと言うとそうとは言い切れないことだ。例えば、日本は道徳という授業が実施されているが、道徳や類似した教科を行わない他国の学校でどれほど、非道徳的なことが行われているか。そもそも、日本は確かに治安が良いとされているが、犯罪が少ないという事実は道徳の成果と言うよりも、歴史的な背景によるところが大きい。

学校では年に大きな行事がある。運動会と文化祭と卒業式、入学式だ。また、遠足、社会見学、修学旅行、自然教室も合っていいかもしれない。

しかし、朝会や異学年交流など校内のこまごまとした行事は減らしていくべきだと思う。なぜならこれらは、校長の命令ではなく教員の自主的なものであるからだ。それに、その行事をしなければ子どもたちは成長しないのかどうか改めてイメージしてほしい

教委や文科省からの通知はどうすればよいのか

教員自身が、増やしてきた業務についてやや批判的に述べたが、実はそれだけではないということも書かなけらばならないと思う。

教員は何か問題があったり社会情勢の変化があったりすれば教育委員会や国から導入してほしい授業形態や対応を強化してほしいことなどの通達が来る。これらはどのように解釈すればよいのだろうか。あくまでも、国や教委は「できるだけ対応してくださいね。」というスタンスなのだろうか。

もしそうだとすれば、無責任にも甚だしいと感じざるを得ないが。

教員は業務改善に向けてなにができるのか

多くのことを学校裁量で改革することができるということもわかった。給与増額や残業代の有無は法律を変えるように動いていくしかないが、働き方改革は学校単位で進めることができる余地はある。

今回の裁判での争点で多くみられたのが、校長の命令か教員の自主的な判断による業務かの違いだった。原告側の主張は、ことごとく校長の命令ではなく自主的な判断で行われたことになっている。もちろん、これは事実だ。隠蔽されているわけではなく、あくまで教員は、今までの慣習や研修、周囲の教員がやっていることと同じように宿題を出したり、ノートチェックをしたり掃除の指導を行っているのである。つまり、校長が命令したのではなく、よりよい教育を求めた結果、業務が増えているという見解にたどり着く。

さて、校長が命令をしていないのであれば、教員は労働と認められていないことに関しては行わなくてもよいのである。だから、みんな定時で帰りましょう。

というのは、もちろん非現実的だろう。しかし、相談はすることができる。命令ではないのだから労働者は断ることができる。やはり校長の職務を鑑みた場合、相談されたことに対して、なかったことにはできない。教員の働き方改革はここから始まるのかもしれない。もちろん、校長によっては自分の過去を持ち出して「それぐらい普通」と一蹴してくるかもしれないが、それは校長の職務を全うしているとはいえない。教員が業務過多を感じ、減らしたい業務が明確ならば、交渉する価値はあると思う。

 

他に教員ができる行動としては、この業務は自主的なものなのか、校長の命令なのか、を意識して取り組むことが必要なのかもしれない。中には、自主的な業務なのに、「これって何の意味があって行われているのだろうか」と疑問をもちながら行っている仕事が少なからずあるはずである。

また、職員会議で新たな教育サービスが提案されそうになったとき、校長の命令出ない事を知っていることは反論するうえで武器になると考える。

多くの教職員が実感している通り、異例の忖言があったとしても現場がすぐに変わることはない。長時間労働も同じであろう。このまま、教員志望者が減り続けて未配置の学校が増えいくのは想像に難くない。

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